入院していた時に描いた絵
今日は昨日の続きで20歳で入院中に描いていた絵を紹介させていただこうと思っています。
人間関係に疲れて、絵を描くのは自分と向かい合う時間でもありました。それと人と繋がるツールです。今でも。
最初に描いたのがこれ。
タイトルは「愛情」。
猫は前に進みたいのだけれど、それを押さえ付ける人間の手。それは猫が手に怪我をしているから。それに気づいているない猫は悲しそうに未来に目を向けている。でも押さえ付けるように見えて実はそれは愛情だった。
焦らない、時期が来たら手は自然に離れる…というのを込めた絵でした。
併用して描いた絵がこれです。
これは無題。
ただ花と蝶々が描きたかった。蝶々は儚く、でも自由な気がして今でも私の憧れです。花も儚くも一時の美しさに惹かれます。
後、チカラが入ったのがこの絵。
タイトルは「自由」。
鳥かごはエホバの証人の籠。水もあるし、花で飾られ安全なところに見えるかもしれない。でも私は自分の意思で16歳の時エホバの証人を辞めたので鳥かごの扉は開いている。でもエホバの証人を否定している訳では無かったのでそこに扉を閉める必要はなかった。閉じ込められた訳でもなく自由に鳥かごの外にも行けるという感覚。でも外は危険がいっぱい。蜘蛛の巣だったり、死ぬ事だってある。死んだら蟻の餌になる。毒蛇なんかもいたりして。でも私は自由に危険があろうと飛びたいと思った。そんなことを込めた絵でした。
まだまだ書きました。
これは「母の好きな花」。なんだかんだで色々あったけど、女手ひとつで育ててくれ、しかも決して母にとって良い子では無かった私をここまで育ててくれたという感謝の気持ちを込めました。
この頃から画家になりたいという夢を母は否定しないで逆に応援してくれるようになりました。
入院中は患者さんや看護師さんが絵を見に来てくれて、本当、絵が人と繋がるツールになっていました。退院する時は同室の過食症の子に青い鳥の絵を送りました。その子は今はどうしているかな?とても喜んでくれた。嬉しかった。
あとある看護師から手紙を貰いました。内容は絵を描く私に勇気をもらったという事でした。こんな私でも人に喜んでもらったり出来るんだ、もう絵があれば、描ければそれでいい!と思えました。
でも今は子育てでなかなか時間を上手く使えない。でもそろそろ描きたいなぁと思っています。
また後日色々な絵をアップして行けたらな、と思っています!!
摂食障害と診断されて
今日は私が20歳の時の話を書こうかと思います。その時は北海道の田舎で医療事務の仕事をしていました。
前にも書きましたが15歳から札幌でフリースクールの寮に入り2年半過ごし、そこで学ぶ楽しさを知った私は有朋で通信制の高校の資格を取ってお金を貯めながら札幌で1人暮らしをするのが目標でした。田舎は色々嫌な思い出のあるところ。あまり長く居たいとは思わなかった。そこで4年で卒業するところを計画的に単位を最初の1年で多くとり3年で卒業する事が出来ました。
ところが医療事務もまだ紙レセプトだった時代。レセプト時期は残業もあり、何より人間関係に悩まされる事が多かった。有朋の勉強もプレッシャーになったのかもしれません。
遅く帰った日は食事も喉を通らず、朝も食べれなくなったりしていました。昼もほとんど食べずに。でもそれが普通になってくると、身体が軽くなって何か解放的な気分になったんです。勿論、体重は減っていきました。
156センチで30キロを切りそうになった時は本当死ぬかもしれないと思いました。
札幌で1人暮らしをする予定でしたので札幌の精神科に即入院する事になりました。
仕事もその時には辞めていました。
その病院では拒食症の病名がつきました。
最初はお水も飲めない状態だったので、点滴を打ちながら、糖尿食を朝、昼、夕と食べて体重を増やしていきました。体重が減ったからと言って高カロリーの食事を摂るのではなく、低カロリー高タンパク質な物を摂ってと言われました。
2ヶ月程の入院を経て体重も38キロくらいに増えて退院する事に。
外出許可をもらい札幌の1人暮らしの家を探す事も出来、無事退院する事になりました。
そして1人暮らしもスタート!
入院中は時間が沢山あったので絵も描いていました。その絵の事はまた後日…。
娘が3歳になるまで〜その3
話が前後してしまっていましたが今日は保育園に通うようになってからと夫の転職の事を書こうかなと。
無事、保育園に行ける事になりましたが、最初は慣らし保育から。
慣らし保育は問題なく進みました。
はじめ私は送り迎えは自分も出来ると思っていました。でも毎日となると、緊張で身体が言う事を聞いてくれず、結果、夫が送り迎えをしてくれる事に。
人の輪に入っていくのが怖くて、猜疑心にかられ、みんな働いているのに…と自分を責めてました。
保育園に入ると手足口病やらインフルエンザやら洗礼を受ける事に。これはあるあるのようですが、保育園から「お熱がでたのでお迎えきてもらえますか?」の電話も怖くて、お迎えも、熱が出た娘の看病も怖かったです。こんな小さいのに!苦しそうなのに!何も出来ないと。
今は娘も3歳になってだんだん丈夫になり、今年はまだ風邪もインフルエンザにも負けず、毎日保育園、元気に行ってます。
そして夫の2回の転職。
元々料理人で働いていましたが、シフト制で時間がまちまちな上、長時間家に居ない事になるので、もう少し家族の時間を増やすよう、某リフォームの会社に転職。そこは最初は良かったのですが小さな会社だったので役割がどんどん過剰になっていき、それでもお迎えがある為、定時でほぼ帰って来ていた夫はパワハラにあいました。最初は理解のある社長と思っていただけに夫の精神的ダメージは大きく心療内科に行ったところ適応障害の病名がつきました。
そこで2回目の転職。
その時には娘もお話しが上手になっていたし私の体調も良くなっていたので、お迎えだけは私が行く事にしました。夫の仕事は残業もあるけれど、ここで私も頑張らなければ夫も安心して働けないと思い、去年の12月から今もですが移動介護のヘルパーさんと一緒に慣れるまでお迎えに行く事になりました。
波はありますがなんとか今はお迎え行けています。この間3回程、体調を崩して行けない事もありましたが、夫がその時は会社に頭を下げて残業をしないでお迎えに行ってくれました。
本当に感謝してもしきれない。
ほんとに色々な方に支えてもらいながら、私はなんとかなっていると思います。
そして、人の家と自分の家とを比べない事。が、大事かな?と思います。
比べても仕方ない。
まだ慣れないお迎えと娘の寝かしつけまでの時間。今は少しずつ「こういう時間は今しかない」と思えるようになって来ました。
今日もぼちぼちとやって行きたいなぁと…。
娘が3歳になるまで〜その2
話が前後してしまいますが、今日は娘が産まれる前の話を…。
札幌から関東に引っ越したのは2015年の春でした。私は婦人科系が弱く不正出血、生理の遅れなどは当たり前で子供ができにくい体質だと思っていました。今の夫と同棲し出し、統合失調症の病院も札幌で通っていた先生からこちらの先生を紹介してもらい、少しずつ落ち着いて来た頃でした。
8月11日に籍を入れる約束をして(その日が付き合い出した日なので記念日にしようと話して)色々準備をしていた頃、生理が止まりました。いつもみたいに遅れてるのかな?程度にしか思っていませんでした。
当時、私はエビリファイとアキネトン、デパスを処方してもらっていて、寝る前にはマイスリー、サイレースを飲んでいました。
私の場合つわりなどもなく、生理の遅れがちょっと気になってもしかしたら…と思い検査薬を使ってみました。そこで妊娠していることが発覚。すぐに夫と近くの婦人科に行く事に。
正直に今の状態を話し、薬の事も伝えると、先生からは「どうして、こんなに薬を服用しているのに避妊しなかったのですか?」「今の状態では産めないと思います。」
なんだか不安になる一言でした。
今思うとその通りなのです。でもその時はそう思えなかった。
その後内診をして「ちゃんと子宮にいますよ、動いています。」
その時強く思いました。「産みたい!!」。
すぐに夫と精神科の先生のところへ。
薬を飲んでいて子供に影響がないか、まずは相談をしに、障害を持った子供専門の機関に行くように勧められて紹介状を書いてもらいました。そこで調べてもらった結果「100人に3人の確率でもしかしたら影響があるのかもしれないです。」
それが多いのか少ないのかは分かりませんが、どんな事があっても産みたい!と思いました。夫も、もしかしたらリスクはあるかもしれないけど、私が産みたいなら産もうと、話し合いました。
病院は大学病院に決めました。何かあった時の為に。
薬はデパスをやめてそれ以外はいつも通り飲んでいました。
8月11日無事に籍を入れて…。
だんだん大きくなるお腹に私とは違う命があると思うとなんだか感動しちゃって、ちょっと情緒不安定にはなりましたが、2016年2月に無事出産。
元気な女の子でした。
薬を飲んでいるので母乳ではなくミルクのみでしたが娘はすくすく育ってくれました。
この間支えてくれた夫には本当に感謝です。義母さんも札幌から応援に来てくれたり、その後は私の母が1ヶ月北海道から来てくれました。
本当に感謝しかないです。
そして今でも色々な人が支えてくれています。
娘も無事3歳になり、でもやっぱり色々ありました。
「産まれてからが大変だから」と聞いてはいたけど、今思うと本当にそうです。
でもおちゃらけた娘や笑ってる姿を見ると本当癒されます。
まだまだ書きたい事がたくさん。
でも今日はこの辺で。また後日…。
娘が3歳になるまで〜その1
今日は日曜日なので娘も保育園お休み、夫もお仕事お休みです。
いつもよりゆっくりな朝です。
午前中のうちに公園に行ってお弁当食べる予定です。
娘は今年の2月に3歳になり、お話も内容がしっかりしたものが出来るようになり、おちゃらけて周囲を笑わせてくれるちょっと生意気w…ちょっとオマセな女の子に成長しました。
これからも大変だと思うけれど、3歳になるまで引越しだとか、私の病気の事だとか、夫の転職やらで精神的にも体力的にも、本当に大変だった。
なにせ、初めてが多すぎてパニックになる事が多かったです。
はじめは保育園に入れる予定はありませんでした。でも娘がミルクを飲んで寝ている時間が多かった時は過ぎ、だんだんハイハイをしたり離乳食が始まった頃あたりから私の体調が崩れていきました。
結果、娘を乳児院に1ヶ月見てもらう事に…。
その間娘は突発性発疹で入院したり、面会も制限されて、今思うと本当に淋しい思いをさせてしまったなぁ、と。
面会の時、私と夫の顔をみた時娘は大泣きしました。これはよくあることだと言われました。でもなんとも言えない申し訳なさでした。私の体調が戻り家で家族3人一緒に過ごす事を許可され、1ヶ月振りに家に連れて来てもらった時のよそよそしい娘を今でも思い出すと、自分の体調の管理、難しいけど出来るだけ考え過ぎない、周りの人達に助けてもらうという事も必要だった事、そして1番に娘の気持ちを考えました。
そして、7月という中途半端な時期でしたがその何日か後に申請していた保育園の空きがたまたま出て優先的に保育園に入る事ができたのです。
本当にその時の乳児院の職員の人や、区役所の保健師さん、保育園の先生たちにはお世話になり、感謝でしかありません。
そしてずっと一緒に居てくれた夫にも、育ってくれた娘にも感謝です。
まだまだ書きたい事があるのですが娘が今、絵を描き出し遊びモードに入ったのでまた後日…。
大恋愛をした話。
退院して、また1人暮らしを始め生活保護を受けながら訪問看護は週1で病院は2週間に1回。
社会復帰を目指していたので、たまたま歩いて3分もかからない場所に精神科の人達が集まるアトリエと言う名の作業所を見つけ、通う事に!
作業内容は絵はがきを書く事や、しおりの絵を書いたり、出汁を作ったり。
私にとって本当居心地のよいアットホームなA型B型(作業内容でそう呼ぶ)でも無い所。
所長は最初は怖いかな?と思ったけど、だんだん慣れて来ると全くそんな事なく、理想のお父さんみたいな感じで、北海道から離れて関東に住んでいる今でも娘の成長の写真を月1で送って連絡を取り合っています。
そんな日々が何年か続き、今何故、関東にいるかと言うと、大恋愛をしたから!
実は私は22歳くらいの時に結婚をしましたが若かった事もあり、相手の事を思いやれる余裕もないくらい仕事も忙しかったので1年で離婚。その時は警察沙汰になるくらいのDVもあったりして。その元旦那の親友が今の夫なのです。
たまたま札幌に今の夫が帰って来た時に久しぶりに会ったのがきっかけで話はトントン拍子に運び次の日は「結婚するしかないでしょ」とw。
色々洗いざらい話した結果がそれでした。
私の母親は大反対でしたけどね、そこも1年かけて説得して、付き合い出した1年後には結婚。夫は私の事を理解しようとしてくれたし言いづらい生活保護の事、病気の事、私の生い立ち全部否定もせずに1つ1つ解決していってくれました。
遠距離になった時は携帯カケホにして計算したら月30万円近く話していました。
そのくらい今思うと依存していたのかもしれませんね。お互いに。
娘の事はまた後日…。
閉鎖病棟での生活
昨日の続きです。
閉鎖病棟は詰所からしか入り口が無くてそこで持ち物検査をされました。
パーカーに付いてる紐だとかヘアピンだとか自傷に繋がるようなモノの持ち込みは禁止。私の場合未だに集英社の「りぼん」を購読しているのですが本は良くても付録がダメとか。
最初はそんな本の持ち込みもダメでした。治療に集中する為に。
落ち着くまでは絵を描くペンも。
最初の1ヶ月はもう何とか退院したくて仕方がなかった。丁度私の絵を飾って頂いてるカフェの周年があり、そこで私もスタッフとして手伝う事になっており、フライヤーも私の絵を使って頂いていたので、それが気になっていて仕方がなかった。
でも外出許可も勿論出る訳がなく、見送る事に。その時のオーナーには本当に迷惑をかけたと思っています。
病棟ではテレビが食堂にあり、最初はニュースを見るのも怖かった。
ニュースで取り上げられる犯罪者が自分なのでは?と感じたり、身近に犯罪者が狙ってるのでは?と感じたり。
テレビを見てずっと爆笑しているお姉さんや、ウロウロ歩き回って落ち着かない人や、こっちを見て来てひたすらニヤニヤしてる人、突然暴れ出し詰所で手足を拘束されて安定剤の注射を打たれる人、色々な心の病気を抱えた人達が集まっていました。
「こんな所に居たら頭がおかしくなる!」そんな電話も母にしようとしても取り合ってもらえるはずもなく。
でも1ヶ月も過ぎるとだんだん慣れて来て…というか諦めが出て来て個室で絵を描いていました。その時には落ち着いていたのでペンの持ち込みも許可が出ました。
作業療法にも積極的に出るようになり、薬も管理されていたので飲み忘れる事もなく少しずつ落ち着きを取り戻していきました。
結局、半年間で退院する事が出来ました。
退院しても薬を飲み忘れると冷や汗が出て来て、やっぱり声が聞こえる気がしたりという事もありました。
今は薬を飲みながらですが娘も産まれ、色々な援助を受け、夫に助けてもらいながら生活をしています。その事はまた後日…。